「長かったけど、楽しかったね。」
harmoの創業者、石島 知が「これまで」を振り返ったとき、最初にこぼした言葉です。
「ビジネスで社会課題を解決する」「前例のないところから作り上げていく」――そうした一貫したキャリアを歩みながら、電子版お薬手帳というゼロからのものづくりに関わってきた石島には、多くの楽しさと困難、そしてCEOとしての重圧や責任を感じた時期もあったといいます。
ソニー時代から現在までの約10年間。
今後「社会の当たり前」になるであろうPHRサービスの先駆けとしてharmoを創り上げ、世の中に無かったものを生み育てていくことに面白さを感じていたと石島は語ります。
harmo株式会社代表取締役 Co-CEOとしての役目を終え、石島 知はharmo株式会社を卒業します。
卒業に際し、harmo株式会社の創業の経緯や石島の挑戦と軌跡を振り返り、今後のharmo株式会社への想いを語ります。
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harmoに関わることとなった10年前
harmoに関わったのは2014年なので、約10年間になります。
最初はソニー株式会社にて一担当者としてharmoに関わりました。
これから立ち上げる事業だったので、1人目のマーケティング担当として誘われて参加したのです。
もともと大学生時代に、何もないところから社会課題解決をするNPOを立ち上げた経験があり、ゼロイチを作り出す感覚や面白さを知っていたので、きっとやりがいを感じられるだろうと思っていました。
入社当初から関わってきたマーケティング業務ではグローバルでの市場分析や製販を主に担当していましたが、もう少し市場に近い業務をやりたいと感じていました。社会課題を解決できる事業の立ち上げの機会は非常に魅力的で、これまでの経験と興味が交わったharmoの事業は、まさに自分が目指していた「ビジネスを通じた社会課題解決」という目的にマッチしていました。
harmoへの参画。きっかけはソニーでの「社会貢献プロジェクト」
ソニーに入社したのは2012年でした。
それ以来、オーディオ製品の海外マーケティングに携わってきましたが、そのなかで『コートジボワールの子どもたちにパブリックビューイングでサッカーの映像を届ける』というプロジェクトに関わるようになりました。このプロジェクトは、内戦後のコートジボワールで民族間の交流の機会を創出するために行われたもので、ビジネスを通じた社会貢献という、私が本当にやりたかったことでした。
<無電化地域において、ソニーの映像機器やオーディオ機器を活用し、サッカーのパブリックビューイング映像を届けた>
このプロジェクトで共に取り組んだ先輩がharmoの立ち上げに関わっており、先輩からの誘いがharmoとの出会いでした。当初は一人でマーケティング部門を担当していました。
<harmoサービスの認知度を少しでも上げようとのぼりを薬局前に設置させてもらうところ>
当時、電子版お薬手帳はほとんど普及しておらず、扱っている会社も3社しかなかったですし、診療報酬も付かないので『便利ではあるが必須ではないもの』でした。
電子版お薬手帳というのは便利ツールの一つでしかなかったのです。そのため、2014年ごろからは、まず実績を出し医療業界で認知してもらうための活動を地道に行っていました。目標を「診療報酬の算定化」に定め、マーケティング活動を展開しましたね。
ソニーという大きな企業が動いていたことで、厚生労働省が算定要件を付けるきっかけになったと言われていたので、一定の社会へのインパクトはあったのだと思います。
2016年に診療報酬が算定できるように変わったタイミングで、ソニー内でもharmoを事業化しようという話がでてきました。そこからは薬局への営業活動や製薬会社向けのデータを活用したビジネスの立ち上げなどを通じて、事業がビジネスとして成り立つかの検証を2017年は集中的にやっていました。
幸運にも大型の案件も獲得できたことで、電子版お薬手帳の事業は継続できましたが、当時はPHRという概念がまだ社会的に認知されておらず、このままだと電子版お薬手帳が軌道に乗るまでは5年〜10年くらいかかるのではないかという認識を持ちました。一方で、ソニーでは短期での結果が求められる時間軸で動いていたので、会社の求める時間軸と事業の成長にズレが生じていました。そのため、ソニーでの環境はありがたいが、このまま続けるのはしんどいだろうと思っていました。
そんな時、2017年の10月に私が事業企画のリーダーに任命されました。
そこから、事業を継続させるためにアライアンスの交渉をはじめました。
ソニーからシミックへ。事業承継に苦戦
シミックとの出会いは2017年でした。お世話になっていた広告代理店のパートナーさんのご紹介で松川さん、三嶽さん(現シミックホールディングス副社長)と面会したことがきっかけでした。その後、2018年8月にはシミックとソニーの共同合宿なども小淵沢で行いました。
その際に、後の共同代表となる山東さんとも出会いました。この時に、「こんな優秀な人がシミックにはいるのか!」と驚いたことを今でも鮮明に覚えています。年齢も近い山東さんと仕事ができるのは面白いだろうなと思いました。(シミックに入った後、2年半の山東さん引き抜き活動を頑張りました)
<2018年8月のシミックとソニーでの合宿。石島の左隣が山東さん>
当時は30社以上と交渉していたのですが、その中でシミックにお願いしようと考えた理由はいくつかありました。まずは、山東さんをはじめ優秀な人材がいること、そして当時のソニーには足りなかった医療領域の知見や、製薬会社のクライアントをシミックが持っていたことで、ビジネス的なシナジーを感じた点が大きかったです。
私たちはテクノロジーの部分には強みがありましたが、医療や製薬業界に対する深い知見はシミックが圧倒的に持っていました。シミックとしても、PHVC(パーソナルヘルスバリュークリエイター:個々人の健康価値の向上ができる集団になる)というビジョンを掲げていて、私たちの事業にポジティブな印象も持ってもらっていました。
お互いのビジョンが合致したこと、双方の強みが異なること、事業としての時間軸がシミックの事業の時間軸に合っていたこともあって、事業承継という形で2019年6月にシミックにharmo事業を移管しました。
<2019年6月に事業承継してから事業開始する初日>
ただ、ソニーのメンバー全員がこの移管を歓迎したわけではありませんでした。特にエンジニアや運用チームの中には、ソニーでの仕事に対する愛着が強く、事業継続よりもソニーに残りたいという思いを持っていたメンバーも多くいました。そのため、当初からポジティブに受け止められないメンバーも多く、シミックへの移管後もチームをまとめていくのは大変な状況でした。
しかし、シミックはこの点でもサポートしてくれました。
もともと30人以上いたソニーのメンバーが行っていた業務を、ソニーから出向した6人とシミックから参加した4人の計10名でなんとか回せるようにするところから始めました。当時は本当に大変だったのを今でも鮮明に覚えていますが、なんとかみんなで踏ん張っていきました。
シミックに移管したタイミングで事業部長として組織を率いる立場となりましたが、移管と運用体制の再構築までには1年近くかかりました。
スピーディーな意思決定を求めて。harmo株式会社設立の想い
シミックに移管した後、2020年には新型コロナウイルスへの対応が急務となりました。シミックグループを挙げてコロナワクチン対応を進めることとなり、harmoチームもワクチン接種記録システムをコロナワクチン接種に対応できるようにし、集団接種会場でのオペレーション業務を担うなど、2021年には会社全体でコロナ対応に追われていました。
この時期、harmoおくすり手帳の旧システムの課題を解決するため、新しいシステム開発を検討し始めたタイミングでもありました。
そして、コロナ対応や新システム開発を現場目線で加速し、harmo事業をシミックの中核システムに位置付けるために設立したのが『harmo株式会社』です。
2021年10月に会社が営業を開始した際、「自分たちで迅速に意思決定ができる」という嬉しさの反面、世間から「harmo株式会社」として見られる責任の重さを同時に感じました。共同創業者である福士さんと共に、 代表取締役Co-CEOとして50人近くの社員を抱え、組織全体の責任を持つことで、自分自身も大きく意識が変わったと思います。
覚悟とharmoおくすり手帳旧システムのリプレイスへの挑戦
会社としては、『harmoおくすり手帳』に加え、『harmoワクチンケア』や『harmoワクチンケアwithコロナ』など、複数の事業を展開していましたが、サービスラインナップが増えるにつれて、harmo株式会社としての方向性がぶれてしまうこともありました。社員数も大幅に増え、様々なミッションやビジョンが混在している状況で、組織を再整理し、再びまとめ直す難しさに直面しました。
実は、Co-CEOという立場についてから、自分の中では当初は苦しさを感じていました。
そのときに「事業に対する情熱や絶対に逃げない姿勢が部下に見えていない。自分の想いを語るのはそれを部下に示してからだ」ということをシミックホールディングス株式会社 代表取締役 会長の中村和男さんに言われました。命をかける覚悟が見えない、と。
そこから覚悟を決めました。
ソニーから一緒にきたエンジニアたちには、旧システムから新システムへのリプレイスは「不可能に近いと思う。」とはっきりといわれていました。しかしながら、システムのリプレイスができなければサービスの発展はなく、最終的には身動きが取れない状態になってしまうという状況であり、意思決定して進めました。
ただ、覚悟があっても難しいものは難しく。
ここからもプロジェクトがスムーズに進まなかったり、新しいシステムのローンチが延期を重ねたりと苦戦しました。
2022年10月には体制を変え、福士さんを会長に据え、私が単独でのCEOとなりました。ローンチが遅れたことに対して顧客への謝罪を重ねつつ、より強い組織に生まれ変わるために体制変更を行いました。エンジニアチームを再構築し、新リーダーの内上 昌裕さんとともに新システムに挑む決意を固めました。
当時、部長だった山東さんに「正直、どうすればよいかわからない」と相談したとき、彼は「言ってくれてありがとう。待ってたよ」と言い支えてくれ、やるべきことを一緒に整理してくれました。エンジニアチームの中での主体性を発揮しリーダー格だった内上さんも「正しい判断をされたと思います。一緒に頑張りましょう。何とかします」と力強く現場をまとめ上げてくれました。
更には、harmo株式会社の最大の支援者である中村会長からも「harmoは絶対に支えるから、何とかやり抜いてほしい」と激励されるなど、多方面から支えていただきました。
このときに仲間に恵まれていることを心から実感しました。
こういった紆余曲折がありながらも、何とか新システムのリリースにこぎつけ、旧システムのリプレイスも完了することができました。今では、顧客の声を聴き、プロダクトに反映できる体制を整えることができました。
3人の共同代表制へ
2023年10月、代表取締役として山東 崇紀さんと内上 昌裕さんが加わり、再び共同代表Co-CEO体制になりました。攻めの姿勢を持つ私と、守りに強い山東さん・内上さんが共にいることで、これまで以上に強い組織となり、進めやすい体制が整いました。
<2023年からは3人の共同代表制へ。https://www.harmo.biz/news/ooclymziagra/>
新システムが稼働し始めてからは、京大病院での実証実験や経産省プロジェクトへの参画など、攻めの領域に安心して取り組めるようになりました。他にも地域薬局での導入が進み、今後の道筋も明確になってきています。
さらに、医療機関への導入も徐々に増えており、harmo株式会社が組織としてもサービスとしても拡大フェーズに入ったことを実感しています。
新システムの稼働前は、顧客に向き合うのが怖かった時期もありました。顧客からアイデアをもらっても、実際にプロダクトに反映できず、価値を生み出せないことに悩んでいたのです。
しかし、今では顧客の声を積極的に取り入れ、プロダクトに価値を反映し、顧客の課題を解決できるようになったことが非常に嬉しいです。
<京都大学医学部附属病院、シミック、harmo連携協定を締結したさいの調印式の一コマ>
PHRサービスの市場ができあがる実感と次へのチャレンジ
電子版お薬手帳の業界にとって大きな転機となったのが、2023年3月にガイドラインが発行されたことです。8年ぶりの改定で、電子版お薬手帳がPHRの一つとして位置付けられるとともに、病院やクリニックにおいても紙より電子が推奨されるようになりました。また、医療関連データの活用に向けた道筋が示されたタイミングでもありました。実は私たちもガイドラインの作成に関わり、このガイドラインが世の中に与える影響の大きさを強く感じました。
さらに、PHRサービス事業協会の発足も大きな出来事でした。私もこの協会の立ち上げ初期から関わり、最初の6社の一つとして経産省のヒアリングも受けてきました。最終的に、PHRサービス事業協会には120社以上の大企業が加入し、民間では最大規模の業界団体となりました。
これらのことをきっかけに、harmo事業に参画した当初描いていた「PHRサービスが当たり前になる世界」が現実に近づき、自分自身のゴールがある程度満たされた瞬間でもありました。
このように、当初本当にやりたかった想いが実現されつつあり、最大の課題であった旧システムから新システムのリプレイスが完了するとともに、チーム体制も強化され、新しい道筋も見えました。
そして10年の節目を迎えた際に、自分自身が次に何にチャレンジしたいかを熟慮した結果、このタイミングにて卒業を決断させていただきました。
石島とかかわってくださったみなさまへ
まず、harmoのユーザーの方々へ。毎日1名ユーザーが増えるごとに一喜一憂していました。最後は患者さんのためになりたい!という想いだけでやってきました。ユーザーインタビュー(https://note.com/harmo_inc/m/m1dc19b8ff533)などをさせていただく機会で、薬の課題を抱えて困っている人であればあるほど、harmoに対して想いをのせてくださっていました。正直、まだまだやれることはたくさんありますが、これはこれからのharmo社員のメンバーに託していきます。必ず、良いサービスとして進化していくことと思います。
次に、harmoを支えてくださった薬剤師、医師などの医療従事者の方々に感謝申し上げます。
先生方が日本の医療を献身的に支えてくださっているからこそ、日本の医療提供体制が何とか保てていると実感します。
先生たちからの「harmo使っているよ、便利だよね」「harmoはこれからの日本の医療に必要だよ」という声を幾度となくいただくことで、モチベーションを維持することができました。
時には生意気なことをいって怒らせてしまったこと等もありましたが、そういった先生方こそ、harmoの最大の理解者であり、応援団でした。おそらく、自分のことかなと思っている先生方も多々おられると思いますが、その時はまたお酒でも飲みながら想い出話をさせていただきたいと思っています。
最後に、harmo株式会社を率いる機会をいただいたシミックグループや社員、業務委託等のパートナーには心より感謝しています。社長として未経験だった33歳の私に対して期待し、この重責を担わせてもらったことは、かけがえのないものでした。
特に、結果が出ていなかった時でもharmoの可能性を心から信じてくれて継続させてくれた中村和男さんには感謝してもしきれません。
また、harmo株式会社のValueの一つである「役職は役割」は特に浸透していたこともあってか、社員からは毎日フラットに叱咤激励してもらいました。(笑)
こういったステキな社員の方々いたからこそ、自分自身の未熟なところに気が付くことができるとともに、結局埋まらないところはしっかりと埋めて頂けました。少し抜けているところがある部分も可愛げとして受け取ってくれる社員の方々のおかげで、何とかやってこれました。改めて、感謝しています。
<harmo株式会社創設記念パーティーのとき>
これからも、harmoサービスを世の中に普及させ、顧客やユーザーの価値を創出し続けてほしいと願っています。harmoサービスは単なるお薬手帳ではなく、「薬の体験を最適化するプラットフォーム」として成長させ、さらに大きなビジョンに向かって進むことを期待しています。
根底にあるのはやはり顧客やユーザーの課題解決であり、そこから生まれる価値創造を変わらずに続けていってほしいと思います。
現在、harmoはすでに一つのブランドとして社会に根付いていますが、まだ発展途上です。
『PHRサービスといえばharmo』という日が必ず来ると信じています。
みんななら必ず実現できると信じていますし、私も応援団の一人となりたいと思っています。
個人としても、新しい業界を創り出し、それを継続させることの重要性と難しさを学んだ10年間でした。患者に寄り添うこと、支えてくれる人々とのつながり、組織のトップとしての責任、そして社会に与える影響を考え続けた経験は、私にとって大きな財産となりました。この財産を糧にして、自分自身の次のチャレンジを自信もってやっていきたいと思っています。
本当に、楽しかった。
ありがとうございました!
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石島さんが築いたharmoの基盤は、私たちにとって大切な財産です。
これからも「十人十色の医療体験を当たり前にする」というミッションの実現を目指し、成長し続けたいと思います。
新しいチャレンジが待つ未来へと向かう私たちですが、石島さんの歩んできた道のりと信念は、常に私たちの背中を押してくれるはずです。
『PHRといえばharmo』と皆さまに思っていただける日を目指し、これからも共に歩んでまいります。
今後のharmo株式会社にどうぞご期待ください。